東箱根開発事件と前借金と賃金との相殺

(東京地判昭50.7.28、東京高判昭52.3.31)

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使用者が、毎月支給する金員の約半額近くを占める勤続奨励手当を前貸金とし、

中途退職者に対して支給済みの前貸金を返還させることは許されるのでしょうか。

【事件の概要】


Xらは、土地開発事業、土地売買及び斡旋等を業とする会社Yに雇用されたが、

Xらは1年も経たないうちに、勤務振りが悪い等の理由により辞職を迫られ、

事実上解雇されました。

Yでは、賃金制度の中に勤続奨励手当なるものが設けられていたが、

この手当は労働契約期間(Xらの場合は各1年)を全期間勤続した場合に期間満了時に支給され、

解雇も含め中途退職した者には支給されないものでした。

ただし、Yはこの手当の前渡しを希望する従業員に対しては、

その月割額に相当する金員を、期間満了時に本来支給を受けるべき手当額から控除することにより返還するという条件で貸し付けていました。

この結果、従業員が労働契約期間の途中で退職した場合は、

それまでに支給されていた勤続奨励手当の全額を返還しなければならないこととされていました。

Xらは、Yにより解雇される際に、

この勤続奨励手当の返還請求を持ち出されたため、

当然支払を受けるべき未払賃金や解雇予告手当の支払請求を断念させるばかりでなく、

以上についての不服申立ての途をも一切封じようとする内容の「覚書」に調印させられました。

そこで、Xらは、このような取扱いは労働基準法に違反する行為で無効と主張して、

未払賃金と解雇予告手当の支払を求めて争いました。

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【判決の概要】


【一審判決】
本件手当の月割額が毎月の基本給等の賃金額との比較において占めている割合を考え合わせると、

「前貸金」は、これが社員に支給される当初以来、

その名称、形式はともかくとして、

労働の対価として毎月社員に定まつて支給される賃金の一部であり、

Xらの場合もこの例に洩れない、ということができます。

かように、もともと貸付金としての実質を有していないにもかかわらず、

「前貸金」という制度を建前上採用し、

中途退職等の場合に支給額の全額を返還する義務ある旨を社員との間にそれぞれ約定したことは、

ひっきょう、使用者であるYにおいて、右義務があることを理由として、

社員の生殺与奪の権を一手に掌握して、

これにより、Yの社員として勤務している限り終始つきまとう「前貸金」という前借金制度でその労働を事実上強制させるとか、

気に入らない社員の解雇を著るしく容易にし、

かつ、雇用契約の終了に伴う未払賃金の清算とか解雇予告手当の支払等について、

使用者側に一方的に有利な立場を確保する、

以上の意図の下になされたものというのほかありません。

したがって、そうだとすると、Xらの場合を含めて、

中途退職等の場合支給ずみの「前貸金」を返還する旨の約定は、

労働者を強制的に足留めさせることを禁じている労基法5条、

前借金による相殺を禁止した同法17条、

解雇予告について規定している同法20条の脱法行為にあたる面を払拭できず、

民法90条の公序則に抵触し、無効というべきです。

【控訴審判決】
Yは、自己にとって有用な社員を厚遇をもって獲得、確保する反面、

あまり役に立たない、または意に沿わない社員は最小限の出捐をもって放逐するという雇用政策をたて、

そのための手段として、上記のような勤続手当およびその月割額前貸の制度を採用したという面が存することを否定することができないのみか、

むしろそれが主たる目的をなすものであり、

さらにいえば、Yは、一方において社員が現実に入手しうる給付金額として前記合算額を提示することにより応募者の入社意思を固めさせるとともに、

他方では退職させようとする者に対する関係ではYの実質負担額をできるだけ少ないものとすべく、

そのための直截簡明な方法として期間中途退職者に対し既払賃金の一部の返還を約諾せしめることが労働基準法5条、

16条等の違反に問われるおそれがあることをおもんばかり、

これを回避するために給与額の約半分に相当する金額について、

これを一年間の勤続を条件として支給される勤続奨励手当の月割額の前貸ということにして、

正規の給与分とあわせて支給するという本件給与方式を案出、採用したものと推認するのが相当です。

右勤続手当の月割額の交付をその額面どおりに一定期間勤続した者に対して給付されるべき報奨金の前渡しとみるのが事の実相に適合するものでないことは明らかであり、

むしろそれは、実質的には正規の給与と同じく労務の対価として支払われるもの、

その意味において賃金の一部たる実質をもち、

前貸形式でされる右月割金額の給付は賃金の支払に相当するものとみるのが相当です(前記のように試用期間に相当する入社当初の3か月の期間について右月割金額が減ぜられているのも、この解釈の裏づけとなるといえます。)。

そして右勤続手当の月割額の交付がこのような性質のものと解される以上、

さらに進んで、Xらは、Yに対し、

雇用契約上(該契約の形式的文言にかかわらず)自己の給付した労務の対価として正規の給与に右月割給付金額を加えたものを請求する権利を有するものと解すべく、

また、勤続期間1年未満で退職し、または解雇された場合に、

すでに給付を受けた賃金の一部である月割給付金相当額をYに返還する旨の約定部分は無効で、

Xらはかかる返還義務を負うものではないと解すべきです。

けだし、実質賃金の一部を一定期間の勤続を条件として給付される勤続手当の前貸という形式で交付する前記給与方式は、

さきにも指摘したように、勤続1年に満たない中途退職者(または被解雇者)に対しては、

賃金の一部を支給せず、またすでに支給した賃金の一部を返還する義務を負わしめるというのとその実質的内容を同じくするものであり、

後者のような約定が、あるいは一定期間の就労を強制するもの、

あるいは契約不履行に対する制裁約定であるとして、

労働基準法5条または16条に違反し、その効力を否定されるべきものである以上、

前者の給与方式についても、上記のような解釈をとらない限り、

結局において使用者が賃金の一部の支払義務をまぬかれ、

労働基準法の右規定の趣旨を潜脱する結果となるのであって、

その不当なことは明らかだからです。

【労働基準法5条(強制労働の禁止)】


使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。

【労働基準法16条(賠償予定の禁止)】


使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

【労働基準法17条(前借金相殺の禁止)】


使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。

【まとめ】


前貸金を返還する旨の約定は、

労働者を強制的に足留めさせることを禁じている労基法5条、

前借金による相殺を禁止した同17条、

及び、解雇予告を定めた同20条の脱法行為にあたる面を払拭できず、

民法90条の公序則に抵触し、無効というべきです。